第137回目はアンドリューNDR114です。
*以降ネタバレ注意です。
私は結構アンドロイドものが好きです。
現実でもAI(人工知能)には非常に関心があります。
どこまで人間に近づけるのか?
あるいは人間を追い越してしまうのか?
興味があります。
そんな疑問に一つの結論を示したのが、アンドリューNDR114です。
アンドリューNDR114は私が最も観たいと思っていた映画の一つでした。
物語は近未来、リチャード・マーティンの家に家事代行ロボットNDR114が届くところから始まります。
リチャードの娘アマンダが「アンドロイド」を「アンドリュー」と聞き間違えたことから、NDR114はアンドリューと命名されます。
ある事件で故障してしまったアンドリューですが、修復後に想定外の想像力と創造力に目覚めます。
アンドリューが作った木彫りの馬に感心したリチャードは、アンドリューを時計職人として働かせます。
しかもその収益はアンドリューの財産として与えました。
莫大な財産を築いたアンドリューは、表情表現を豊かにできるようにアップグレードをしました。
それから、より人間に近づいたアンドリューは「自由」をリチャードから買おうとします。
しかし、リチャードはお金を受け取らず、アンドリューを自由にします。
その後アンドリューは仲間を探したり、より人間に近づく方法を探したりします。
果たしてアンドリューの探すものは見つかるのでしょうか?
というストーリーです。
私はこの映画が結構、好きになりました。
私の想像では究極の未来は人類は滅亡していて、生存しているのは機械化人間(サイボーグ)と人間型ロボット(アンドロイド)だけになっているのではないかと思っています。
当然、不老不死を手に入れた世界です。
その想像の一歩手前を描いた作品なのです。
人間は不老不死を求めて(人によってはですけど)機械化して行き、ロボットは逆に人間に近づくことを望んでいます。
私としては機械化して生きながらえたいですが、映画では人間は死を迎えるから人間なのだと言っている様に感じました。
物語は始まりから最後までで200年の時間が経過します。
当然リチャードは亡くなり、物語はひ孫の時代へと続いて行きます。
マーティン一家との死別があり、孤独を感じたアンドリューは人間になることを望みます。
アンドリューはロボットなので、人権も無ければ愛さえも認めてもらえません。
アンドリューが人間へとアップグレード(ダウングレードとも言える)してまで、手に入れるものは一体何なのでしょう。
機会があれば是非、観てみてください。
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私が観た人工知能系の映画の中では今のところ1番好きな映画かもしれません。
すみませんが、もう少しラストについて語ってしまいます。
*ネタバレ強めです。
ラストは映画的にも良い終わり方だったと思っています。
だから私はこの映画を否定したい気持ちは1ミリもありません。
しかし哲学的な面で私はアンドリューの考え方を否定したいと思います。
この映画の中では、ロボットは永遠の命があり、人間は限りある命だからこそ人間であるという哲学に基づいています。
というか映画の中の世界がそういう論調なのです。
銀河鉄道999にも、そういう考えが見受けられます。
しかし私はそれを否定したい。
死ぬのが人間ではありません。
生きようとするのが人間です。
死のうとするのは生きようとすることを奪われた人間です。
だから、私はアンドリューの考えを否定したい。
この映画の原作者はアイザック・アシモフです。
映画にも出てきますが「ロボット三原則」というものがあります。
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
※ウィキペディアより抜粋
これがロボットが守らなければならない原則です。
すなわち、これが守れないロボットはロボットではないのです。
「アンドリュー、君はずっと前から人間だったんだよ」
と、私はアンドリューに言ってあげたい。
生きられるならば、生きていて欲しい。
そう思うだけです。
ちょっと雰囲気でどんなラストか解ってしまったかもしれませんが、是非ラストを観て欲しいです。
この日記は一応、オススメの映画を紹介するというテイで書いています。
これまでに、この日記がキッカケで映画を観てみたという人はおられますでしょうか?
だとしたら
「お役に立てれば、幸いです」
アンドリューより