今回はガンダムⅢめぐりあい宇宙編の感想を書きたいと思います。
最後の最後まで語りますので、まだ観ていない人は*ネタバレ注意です。
この作品を私は子供の頃に映画館で観ました。
なるべく初めて観た時の感想と感動を伝えたいと思います。
映画館にはガンダムのポスターが2枚貼ってあって、1枚はア・バオア・クーとアムロ。
もう1枚はガンダムのラストシューティングといわれるもので、ガンダムの頭と左腕がなくなっている状態のものでした。
それは私にはショッキングなポスターでした。
実は私はこの時、ガンダムのラストを知らずに映画館に来ていたのです。
ラストどころかめぐりあい宇宙編の部分は初見だったのです。
私は映画を観る前から、一気にテンションが上がりました。
主人公が窮地に陥ると燃えますよね。
さて、私がアムロよりもシャアが好きな理由は、テレビシリーズをとびとびでしか観たことがなく、いきなり「めぐりあい宇宙」だったので、アムロに思い入れがなかったことが原因です。
映画のアムロは非情で容赦がなく、病気の父を見捨て、他人の彼女にチョッカイを出す、ろくでもない人間です。
守るべき人も家族もいない、人を愛してもいないのです。
そんなアムロを私は好きにはなれませんでした。
一方で、シャアといえば、諸悪の根源である地球連邦と戦いつつ、父の仇であるザビ家とも戦っている孤高の戦士という感じです。
主人公の要素としてはシャアの方が揃っているように感じます。
この時点で私はアムロよりもシャアの方が好きになっていました。
私がアムロとシャアの戦いで、唯一敗北を認めてもいいと思っているのが、ララァが死んだ時のみです。
私は一応ララァのおかげで引き分けであると考えていますが、シャアはこの時、死を覚悟して、敗北を認めています。
この時、アムロとララァは愛し合っていたと考えている人がいますが、私はそれを断固否定させていただきます。
それはニュータイプ同士の共感であり、
愛ではありません。
もちろん初めて観た時は私もララァとアムロの浮気だと思っていました。
だから私は長い間、ララァが好きではありませんでした。
しかし、大人になってから、それが愛ではなく共感であると解釈できるようになったのです。
さて、物語終盤で遂にアムロとシャアの決戦です。
ガンダムとジオングの戦いは主題歌「めぐりあい」の効果もあって、感動すら覚えます。
まさに死闘です。
ジオング本体は若干間抜けなやられ方をしますが、最後はアニメ史に残る壮絶な相討ちとなります。
過去にそんなロボットアニメがあったでしょうか?
私にとっては主役メカが物語の途中で撃墜されるなんて初めての衝撃でした。
そして先ず舌戦から始まります。
「貴様がララァを戦いに引き込んだ!」
アムロが叫ぶ。
ララァを殺しておいて責任転嫁か!
ララァを殺してごめんなさいくらい言って欲しいぜ!
私は憤る
「それが許せんというのなら間違いだな。戦争がなければ、ララァのニュータイプの目覚めはなかった」
悲しみをこらえて、シャアは答える。
銃撃戦を経て、剣での戦いになる。
この時、私は感動で吐きそうだった。
2人はすでに戦争から離脱して、ララァの弔い合戦、私闘になっていると思いました。
戦争の大義名分なんかより、人1人の命の方が重要なのです。
戦争そっちのけで痴話喧嘩です。
衝撃的な生々しい戦いです。
そして遂に決着がつきました。
アムロの剣はシャアの額をかすめ、シャアの剣はアムロの右腕を貫きました。
そしてトドメのセイラクラッシュで、アムロは戦闘不能、戦意喪失です。
勝った。
シャアが勝った。
シャアはアムロに同志になれと誘いますが、爆風に阻まれてしまいます。
シャアが敗者に手を差し伸べるところも感動的です。
その後シャアはザビ家最後の生き残りキシリアを倒して、仇討ちを果たして行方不明に。
アムロは絶体絶命かと思えば、なんとかガンダムにたどり着き仲間たちのところへ帰ることができた。
カツ・レツ・キッカの3人の子供たちにニュータイプの兆候が現れ、希望のあるラストとなった。
映画館の帰り道に私は感動しすぎて、無言になりシャアとアムロの戦いを忘れないように脳内リピートし続けた。
しかし、そこには大きな勘違いがあったのです。
ガンダムの本当の敵は別にいたのです。
その正体に気づいたのは、それから約10年後、大人になってからの話でした。
次回はガンダムの真の敵について語りたいと思います。
つづく