第6回目はマーティン・スコセッシ監督のサイレンス。
出典eiga.com
*以降ネタバレ注意です。
1600年台の長崎におけるキリスト教の弾圧、迫害を扱っている。
主人公は宣教師のロドリゴ神父。
師匠でもある先任のフェレイラ神父が日本で棄教したと知らされ、その真偽を確かめるため自らも日本に乗り込む決意をする。
その案内役に選ばれたのが漁師のキチジローだ。
ロドリゴ神父とキチジローの対比と対話が物語の中核である。
ロドリゴ神父は日本に着き、隠れ切支丹たちに布教活動をする。
しかし、程なく奉行所に嗅ぎつけられ、捜査が始まる。
村人たちは「踏み絵」を強要され、拒否したものは拷問処刑に処せらた。
ロドリゴ神父は弾圧を目の当たりにして、神が沈黙していることに懐疑心を抱き、信仰が揺らぐ。
一方のキチジローは切支丹であったが、過去に踏み絵を踏んだ経験があった。
キチジローはロドリゴ神父に「告悔」して、許しを得る。
キチジローはその後も踏み絵を踏み、十字架に唾を吐きかけ、遂にはロドリゴ神父を奉行所に銀300枚で売り渡してしまう。
その都度、キチジローはロドリゴ神父に告悔して許しを請う。
ロドリゴ神父は呆れながらもキチジローに許しを与える。
この映画の重要なポイントは実はキチジローが一番信仰心が高く、ロドリゴ神父は信仰心が、もはやグラグラに揺らいでいるということなのだ。
踏み絵を踏んでも、神は許してくれる。
十字架に唾を吐きかけても、神は許してくれる。
神父を奉行所に売り渡しても、神は許してくれる。
キチジローはそう信じきっているのだ。
なんたる信仰心。
一方のロドリゴ神父は、なぜ神は救ってくださらないのか?
なぜ神は沈黙されているのか?
もしかしたら、神はいないのか?
と、もう迷走状態であった。
葛藤し苦悩しながらも、遂には切支丹たちの拷問を見せつけられ、彼らを救うために遂に棄教する。
ロドリゴ神父は信仰を棄てたことによって、失意に暮れていた。
そんな彼を救ったのが、キチジローだ。
物語終盤にキチジローがロドリゴ神父に告悔を求めるが、棄教したのでその資格がないと断られる。
しかし、それでもあなたはパードレ(神父)ですと、キチジローは説得する。
つまり、キチジローはロドリゴ神父に許しを与えたのである。
逆説的ではあるが、許しは神父だけが行えるのではない。
私たちの誰もが誰かを許すことができるのだ。
私は踏み絵なんぞ、なんぼ踏んでも良いと思う。
踏み絵はただの偶像だからだ。
生きるためならば、棄教したって構わない。
「宗教のために人があるのではない。人のために宗教があるのだ」
と、キリストも言っている。
時代背景から、そうせざる得ない状況だったのは解る。
迫害を肯定するつもりも、弾圧で死んだ人を否定するつもりもないが、誤った信仰が広まっていたと思わざるにはいられない。
信仰とは何か考えさせられる良い映画だと思う。
ちょっと重い内容ですが、興味があれば観てみて下さい。
そして、知ったかぶりで語っている私のことも、許して下さい。